創価学会員は朝晩、勤行を行う。決まったお経(法華経の一部)を読み、南無妙法蓮華経という題目を本尊に向かって心行くまで自由に唱える。少ない人は1~2分、多い人は1日3時間以上。創価学会員と非学会員の本質的な違いは、この勤行を行っているかどうかにある。決められた月1回の座談会と称する地域組織単位の集まりや、その他の種々の会合もあるにはあるが、それらは自己の日々の信仰活動の“肥やし”となるもので、触発剤と考えたほうがよい。朝晩同じことを繰り返すという行為は、私でいえば、日々同じ型(沖縄空手の)を繰り返す行為ともよく似ている。創価学会員は日々同じ題目を唱えているが、喜びにあふれた状態で祈るときと、苦しみにのたうちまわった状態で祈る場合と、両極端あるとすれば、日蓮はありのままで祈っていいという指導をしている。ただし私は体験的にむしろこちらがいいと実感することがあって、口では妙法を唱えつつ、心では本尊に「ありがとう、ありがとう」と常に感謝の気落ちで接する姿勢についてだ。ありのままの心で祈るということは、例えば愚痴の心で祈った場合、それは愚痴の生命の祈りとなる。物事を人のせいにしていれば、他人を呪詛するのと同じことにつながる。だがそのとき、常に「ありがとう」という心で祈っていれば、次に出てくる生命(精神)状態は必ず前向きなものとなる。例えば子や孫が交通事故を起こして瀕死の状態にある場合、「事故に遭わせてくれてありがとう」と祈ることを意味する。これは価値観の「転換」の方程式であり、法華経の醍醐味であり、真に実現可能な「世界平和の原理」はここにこそあると確信したのはそう遠い昔ではない。たとえばウクライナとロシアで戦争をしていて、お互いに許せないという感情が充満している場合、その感情を和らげるのは「時間の経過」しか一般的には存在しないが、双方の心ある信仰人がそのような姿勢で祈れば、逆に相手への感謝で心が満たされるということにつながる。事例が適切でなかったかもしれないが、これらは祈り方の「秘伝」に入る部分で、むしろ文字に残すべきでなく、「口伝」で個別に伝えるべきことかもしれない。沖縄空手の世界にも現代の映像文化の時代に入ってさえ、文字や映像に残さず、本当に大事なことは「口伝」で伝えるという慣習がいまも残っている。さて、今日はそういう祈り方に戻ってみよう。