村山富市・訃報忘備録

1994年7月20日。時の首相がこれまでの政党の主張をことごとく否定する政策に転じたとき、多くの党員に幻滅が広がった。私の父も全く同様だった。47年ぶりの社会党政権の誕生として首相に担ぎ上げられた村山富市が、安保・自衛隊合憲を国会で発言したときに党員に与えた衝撃である。「お前が働いていなければとっくに辞めていた」。父は当時私が社会新報記者として党本部で働いていなければ、とっくに党員を辞めていたと後で語っていた。その村山富市元首相が昨日亡くなった。TBSの「ひるおび」で日本維新の会の吉村代表が高市自民党との連立の条件として「国会議員定数1割削減を臨時国会でやりきること」を席から立ち上がってとうとうとまくしたてている最中に、女性アナウンサーが村山氏の訃報を短く紹介した。

 村山首相といえば戦後50年談話がいまでは有名だが、個人的には、当時それほど注目された感じはしない。日本がアジア諸国への戦争責任を明確に認め、謝罪を発信した首相談話だ。その後、日本の政界は右傾化。櫻井よしこはこの村山談話を蛇蝎の如く嫌い、右派雑誌で罵り続けた。安倍元首相も村山談話を無効化する意図で戦後70年談話を発したことを自ら語っているが、現実にはそのようになっていない。いまも村山談話は日本政府の歴然とした方針そのものだ。この談話はだれが発出したかという属人的な問題というより、その内容が真実であり、同時代に生きた多くの日本人はじめアジア諸国の人びとの支持を得た結果が「今」につながっている。ただしそれは戦後50年の節目に、社会党が出した首相でなければ実現はできなかったことは明らかだった。繰り返すが、戦後50年談話はいまも日本政府の方針であり、安倍首相ですら覆すことはできなかった。

 本日付朝日や東京では、村山元首相の訃報とともに「高市首相選出へ」のニュースが1面で並ぶように掲載されている。極めて対照的に映るのは、高市氏が村山談話に常に批判的な政治家であったという事実だ。彼女は戦争責任を認めようとしない、認めたくないという範疇の中で生きてきた“極めて狭い政治家”にすぎない。村山談話は、牧口常三郎が予告した「人道的競争の時代」にそのまま連なる内容を含む。出された当時はそれほどの重みを感じなかったが、歴史に評価されるというのはこういうことを指すのだろう。都合のいい歴史観しかもたない安倍・高市政治の暴走に、歯止めをかける役割を果たした政治家が次の世代にバトンを託す日。

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