右傾化の要因

この国の右傾化がいつごろから始まったか。顕著な出来事がいくつかある。まず1996年12月の新しい歴史教科書をつくる会(いわゆる「つくる会」)の誕生だ。さらに翌97年には日本会議が結成される。2004年には右派月刊誌『WiLL』が創刊され、つくる会や日本会議の思想を体現する発信を言論分野で活発化させた。朝日新聞が慰安婦問題で懺悔謝罪するのはそれから10年後の2014年のことである。

実はこれ以外にも、日本社会の右傾化を推進する大きな要因があった。自公連立政権の成立である。

それまでの公明党・創価学会は野党時代が長く、この時代は平和・人権の運動にその気次第で100%投入できた。だが与党化することで、理想ばかりを発信するわけにはいかない局面が増え、日本社会の右と左のバランスが大きく崩れる結果となった。同時にそれまでの55年体制の一方の極を担ってきた日本社会党の、政党としての消滅も大きかった。

その最初の試練が、1999年の国旗国歌法の制定だった。長年の宿願であるこの問題の実現に向けて政治に陳情したのは日本会議だった。自民党からすれば、公明党が与党たりうるかどうかの「実験材料」としてこの法案が使われた側面がある。すでに与党入りを規定路線化していた公明党は、支持者の反発を受けながらも受け入れるしかなかった。

この法案は当時の野中官房長官が「強制するものではない」と弁明して成立したが、その後の東京都教育委員会を典型例とするように、強制に使われ、従わない教員は処罰される事態へとつながった。公明党は教育に国家主義を持ち込む働きに加担させられる結果となったのだ。

その後の教育分野は、教育基本法の改悪をはじめ、道徳の教科化に至るまで、本来の創価学会の4権分立構想とは裏腹に、逆のベクトルに向かっていった。

個人的に、自公連立の最大の損害は、歴史教育をはじめとする教育分野の確立ができなくなったことにあったと見る。その結果、歴史をふまえない世論が大きく表れた。隣国をあしざまに誹謗中傷し、意見の違う新聞社への憎悪や敵意を隠さない際立った論調が目立ち始めた。

こうした経緯からすると、日本社会の右傾化への責任は、公明党・創価学会にも大きなものがあったと個人的には感じる。

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