意識産業

20年近く前、ある記者団体で事務局を担っているとき、辺見庸氏が一時的に客員教授を務めていた早稲田大学で「現代マスメディア論」を受講した。そこで最も印象に残っていることが「沈黙の螺旋理論」であることはすでに何度か書いているが、ほかにも「意識産業」という言葉も印象深いものだった。

テレビや活字などのメディア関係者に対する言葉だが、要するにそうした仕事は、国民住民の意識をあるときは収奪したり、書き換えたりする働きをする仕事であるといった指摘だった。例えばAという人気のある政治家がいた場合、Aの陰の実態を報じたメディアの仕事により、Aに対する視聴者読者の印象は変わってしまう。そういうことを指しているわけだが、これだけネット社会が定着すると、すでにユーザー一人ひとりが意識産業に関わっているのと同然となる。

そこで問題となるのは、そうした作業が「事実」に立脚したうえで行われるという大原則だ。だが現在の日本社会はそうした大前提が大きく崩れてしまっている。自説に都合のいいように過去の歴史を塗り替え、それを活字にして本にし、金儲けしているような輩がいっぱいいる。要するに雑乱の時代である。こういうときに強いのは、「声の大きい者」「声数の多い者」ということになろう。要するに、論理的思考ではなくなる。平たくいえば、バカ化する。

2020年のココからの戦いは、ユーザー一人ひとりが冷静に、賢くなること。「大きな声」「大言壮語」「威勢のいい主張」に、疑問をもつことに尽きる。

冒頭の辺見氏は、一人の力はたいしたことがなくても、一人ひとりが少しずつそのように行動すれば、社会は変革できると訴えていた。私は微力ながら今、それを実践しようとしている。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。