元公明党書記長、市川雄一が死去

私にとって、当時は政治が面白く感じられた珍しい季節だった。1990年代初頭から半ばにかけての政界激動の時代に、大きな手腕を発揮した市川雄一氏の訃報記事が本日付で一斉に掲載された。興味深く感じたことは、各紙の訃報評伝に多くのエピソードが散りばめられていることである。同氏は小沢一郎氏との「一・一ライン」で有名になったが、東京新聞は「足らないところを補完しあう名コンビ」と評し、説明が足りず批判を受けることの多かった小沢氏をかばうのが市川氏の役割だったと指摘している。ただそうした二人の突出した行動が与党内の亀裂を広げ、政権が短命で終わる一因になったとも指摘。

公明党の支持団体である教団が、社会党と共に政権を奪い取った自民党勢力に意趣返しとして袋叩きにされ、その後市川氏は孤立を深めることになった。ただしこの人の存在がなければ92年のPKO協力法の成立や、93年の公明党の与党入りもなかったはずである。またその過程があったからこそ、現在公明党が与党の一員として仕事を続ける能力を身につけたとの評価も可能かもしれない。PKO協力法の成立がなければ、個人的ながら、私が93年のカンボジア総選挙の選挙監視要員として現地の土を踏むこともなかったはずである。

教団内においては市川氏は功罪相半ばする元公明議員の象徴にちがいないが、反面、竹入・矢野のような典型的な転落の軌跡を描いた人物たちとは明確に異なる。その政治的功績は、歴史が正当に評価するものと思う。

 

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。