自己愛性の戦争呼称

本日付朝日新聞で識者の成田龍一氏が次のように語っていた。「『大東亜戦争』という言葉を使うことは、戦争の反省の上に成り立つ戦後社会を認めたくないという一つの立場表明、イデオロギーとなっています」。さらに多くの戦争で戦後60年ほどで呼称が定まっていくのが普通であるのに対し、日本の昭和の戦争の場合、負けた負い目も伴って「日本自ら総括できなかった」ため、今も議論が収束しないと見ている。来年で戦後80年を迎えるが、この問題はきちんと確立する必要がある。一方で、本日付産経社説はわざわざ「先の大戦(大東亜戦争)」と肩ひじ張った紙面を掲載している。これも「戦争の反省の上に成り立つ戦後社会を認めたくないという一つの立場表明」であることは明らかだ。産経は旧日本軍が犯した南京大虐殺の史実についてさえ、日本会議などの史実に基づかない主張に流され、「なかった」と主張する日本で唯一の全国紙として知られる(右派系とされる読売はそんなお粗末な行動を取らない)。ロシアのプーチン大統領(=ICC指名手配中の戦争犯罪容疑者)がウクライナ侵略戦争を「特別軍事作戦」と都合よく呼称しているのと、産経新聞の行動は変わるところがない。

「大東亜戦争」呼称から見えるもの 戦時中から複数解釈、歴史認識の対立も 陸自連隊の投稿で注目:朝日新聞デジタル (asahi.com)

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