東村山の構図3 ためにする主張

東村山デマ事件についてある週刊誌が新年合併号で小さな記事を掲載し、自殺説と教団謀殺説を並列に並べ、どちらもどっこいどっこいのような記事を掲載していた。結論するに、それは真実と、詐欺師の主張を並列化して、対等に扱っている愚行に等しい。週刊誌としては取材力のお粗末さを記録に残したという点で、恥以外の何物でもないだろう。

東村山事件の真相はさまざまな現象から説明が可能である。一番わかりやすいのは、自殺説と謀殺説の主張がいつの段階から始まったかという「時期」の問題だ。当然ながら地元の東村山署は警察犬も導入し、事件性がないかどうかを含め、自殺・他殺の両面から捜査を進めた。その結果、さまざまな状況証拠から「自殺の可能性が高い」との判断を下し、発表を行ったのが95年12月。事件から3カ月が経過していた。

一方の謀殺説はいつから唱えられ始めたか。唱えた主体は矢野穂積である。実は驚くことにその開始時期は、事件発覚の直後からだ。明代の死亡後、遺体と対面した矢野は、すぐに「他殺」という情報を発信している。多くの週刊誌がそれに踊らされ、賠償金を支払った媒体もあったことは知られるとおりだ。転落事件の発生が95年9月1日午後10時。死亡確認が翌2日午前1時ごろ。矢野は2日の早朝の時点で、「朝木さんが殺された」と関係者に電話を始めた。これが何を意味するかを冷静に考えれば答えはおのずと明らかだろう。まだ警察の現場検証も行われていない段階、もろもろの捜査ももちろん済んでいない(というか正式には始まっていない)。要するに、事実の裏づけが何もない段階で、彼は「他殺」と叫び始めた。そこにあるのは政治的な打算だけだ。結論するに「ためにする」主張でしかなかった。科学的か、非科学的か。まともな人間なら、科学的見地から導かれた結論を信じるのが当たり前だろう。

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