東村山の構図4 身も心も捧げた朝木直子

第2部の冒頭1回目で、この東村山デマ事件を成り立たせる主要な登場人物が3者あると書いた。1人目として「デマ発信源」となった矢野穂積(東村山市議)、2番目にデマの「拡声器」となったメディア、さらに3番目に今も残飯をあさるハイエナのような姿として、朝木直子や長井秀和の名前を出した。だがこのうち、朝木直子は正確にいえばいまもこのデマを利用する人物というにとどまらず、そもそもの発信源の矢野を支えたいわば「共犯者」に当たる。ペテン師としての矢野穂積の行動を支え、運命と行動を共にしたという関係にある。

第1部で見たように矢野穂積と朝木直子の2人には利害を共通にする関係性をもっていた。朝木明代の転落死の遠因となる議席譲渡事件(公正な選挙によらない作為的な議席移動)のそもそもの当事者であり、もとをたどれば矢野は直子の家庭教師という間柄にあったようだ。朝木直子は地元の公立中学から名門進学高校をへて慶応大学に進んでいるが、おそらく矢野が教えたとすれば高校受験の前の中学校時代かもしれない。そうした個人的な過去の関係が議席譲渡にもからんでいた可能性がある。

矢野穂積と朝木直子が共著で出した『東村山の闇』(2003年)を開くと、そのあとがき部分で朝木直子は子どものころから母親に反発してきた自身の過去を取り上げ、「今まで反発して、ずいぶんと母にいやな思いをさせた」と反省するかのような文章を綴っている。

いま振り返れば、矢野穂積は警察の現場検証も終わっていない段階で、朝木明代は「殺された」と事実的根拠もないままにプロパガンダを始めた、まごうことなき「ペテン師」だった。その矢野の行動に朝木直子は自ら積極的に加担し、母親の死を利用した。その結果、「週刊現代」の敗訴だけでなく、同誌の謝罪広告掲載へと引きづり込んだ張本人である。

朝木直子は矢野の発したデマに同調し、そのデマに身も心も捧げたのだ。

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