日本共産党は核兵器反対の立場だったといえるか 8 

ソ連に「盲従」した拭いがたい過去

1961(昭和36)年当時、日本共産党がソ連邦を「盲信」していた証拠は、当時の党中央機関紙「アカハタ」をひも解けば一目瞭然だ。

例えばソ連から要人(第1副首相)が来日した際、アカハタ紙上で「ようこそ平和・友好の使節」(8月15日付)と持ち上げて大々的に歓迎し、同時に東京で開催された「ソ連見本市」を特集(8月26日付)。他国に比べて工業が進み、社会主義の優位性を強調している。さらに「ソ連の『老人ホーム』を訪ねて」(9月9日付)と題する特集記事では、ソ連がいかに夢のような国であるかを演出してやまなかった。

9月上旬には党最高幹部の志賀義雄を団長とする訪ソ団を派遣。宮本顕治書記長も合流し、「ソ連詣で」に励んでいた。10月には第22回ソ連共産党大会へ出席するため党ナンバーワンの野坂議長も訪ソしている。

10月14日付のアカハタでは、「共産主義社会がそこまできている」とソ連党大会を特集し、「人類の夢が現実に」「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」「食堂、家賃、電気、バス みんな無料に」「農村は都市なみ」「ほんとうの民主主義」などの見出しで、ソ連を理想の楽園のごとく描いていた。

10月17日付の社説では、「共産主義を地上に建設するソ連共産党大会の偉業」というタイトルのもと、以下のように記述した。

「ソ連は、核実験再開声明によって、アメリカを先頭とする帝国主義者の新戦争挑発の計画に一大打撃をあたえた。それは、完全に勝利した社会主義の国だけがもつ、偉大な力量を証明した」

「戦争と反動の源泉は帝国主義であり、平和と進歩の源泉は、社会主義であることが、決定的に証明されるであろう」

「日本人民も、必ず共産主義への道をふみこむであろうし、またふみこまなければならない」

「わが党こそ、日本人民を社会主義、共産主義の道に導く準備をもっているただ一つの党である」

11月になると、3回目となる「アカハタ祭り」が東京で開催され、宮本書記長は「われわれも、この生きている時代に必ず、民主主義革命から社会主義へ、さらに共産主義社会を建設しようではありませんか」と参加者に呼びかけた。

さらにソ連の社会主義10月革命を記念した党主催の講演会を杉並公会堂で開催し、宮本書記長、野坂議長がそろい踏みした。野坂議長は「ソ連から帰って」と題する講演を行い、ソ連の核実験再開声明についても言及。そこで、「核兵器をどこの国がもつかによって、平和の武器にもなり、戦争の武器にもなる」と強調し、ソ連の核実験はあくまで平和目的であり、戦争目的のアメリカとは意味が違うことを繰り返している。

野坂議長は、ソ連共産党大会でアメリカ共産党の代表が「20年後にはアメリカでも必ず社会主義社会をつくる」と述べたことを引き合いに出し、日本でも必ずそうなると声を張り上げ、「今晩の集会には、若い人が多いようですが、みなさんはもちろん、年をとっておられるみなさんのこどもやお孫さんの時代には、必ず日本も社会主義、共産主義の社会になっています」「私は確信をもって、こう断言することができます」との言葉で締め括った。

これらを見れば明らかなように、当時の日本共産党は上から下まで、要するに、社会主義国のソ連をバラ色に描き、さらに社会主義・共産主義という思想を盲目的に崇めたてまつり、日本も必ず将来そうなるとの「妄想」を抱きつつ、大衆に垂れ流していた。

だが、歴史の現実はそうはならなかった。

日本共産党がソ連に「盲従」したお粗末な過去を持つ事実は、現代日本の有権者によっても、より広く、より切実に認識されるべきであろう。

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