命が大事と主張する者のいかがわしさ

日本共産党の新たな宣伝ポスターはピンク地に「なにより、いのち。ぶれずに、つらぬく」と書いてある。新型コロナ感染症から国民の命を守るためにぶれずに東京五輪開催に反対してきた、と言いたいのだろう。だが政党やある種の人物が「命が大事」と声高に主張するとき、そこには一種のうさん臭さが伴う。本当に命が大事という考えを自らに血肉化して行動していれば、わざわざそれを口に出して主張する必要があるのかとも思えるからだ。日本共産党の場合は過去に組織として「人殺し」に手を染めており、その過去の行動と「命が大事」といった政治的な主張は、けっして両立しない。こうした二枚舌が透けて見えるのがこの種の主張のいかがわしさの根源にある。同じことは右派サイドにもいえる。

多くの盗用で問題となっている門田隆将というノンフィクション作家も、よく似たような主張を過去に繰り返してきた。だがいずれも本当にそう思って言っているわけではなく、その論理を使って別の政治的主張に結び付けたいという「意図」のもとにそれは使われてきた。たとえば中国を攻撃するためにウイグル人の命が大事と主張する場合や、日本からの敵基地攻撃を容認するための論理として日本人の命が大事といった「短絡的主張」である。ここで共通するのは、特定の政治的意図のために「命が大事」というだれもが当たり前と思える論理を「活用」することだ。要するに「命が大事」という論理を自分の利益のために利用しているだけのことで、その浅ましさが透けて見える点がどちらにも共通している。本当に「命が大事」などと思うのなら、過去に多くの日本人の命を犠牲にした国家神道を厳しく批判するのが当然の流れだろうが、「皇国史観」の虜囚にそれは最初から不可能な話だ。これらの主張のいかがわしさは、実態を伴っていない場合に腐臭を発するように感じられる。

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