公正さを欠く政治

左から右まで、安倍晋三元首相に対する根強い忌避感がある最大理由の一つは、その政治姿勢に明らかに公正さを欠いていたことによる。伊藤詩織事件はその一つの象徴であり、そうした事例はほかにも複数あげられる。日本会議という似たような極右思想の仲間を優遇したとされる森友問題、首相の留学時代の友人を優遇したとされる加計問題、さらに身内優遇の最たるものとして批判された桜問題。すべて「公平さ」を欠く政治姿勢が露出した現象であり、国の最高権力者として求められる資質を明らかに欠いていたことは明らかだ。中でも伊藤詩織事件は、身内のハレンチ行為を刑事的に免責した疑いをもたれた、女性からすればありえない行為であったと見られている。

それでも政権維持の「ノウハウ」だけは長けていた安倍政権は長期政権を築いた。だが何をこの国に残したかといえば、はっきりした象徴となる成果は存在しない。

「公正さ」をもつということは、権力を行使する立場にあっては「前提」といえるものであり、安倍政権が歴史的に評価されることはないと私が考えるのは、その資質を決定的に欠いていたからである。

民主主義のわかりやすいバロメーターは、情報公開のありように表れる。これこそ、国民や有権者に対する「公正さ」の姿勢を計る尺度となるものだからだ。安倍政権は行政の文書の改竄を誘導し、それに対し、加担した役人たちに厳罰も与えず、逆に彼らを出世させたイカサマ政権だった。自分たちを守るためには自ら法を犯して恥じない。どこかの共産主義政権をまるで批判できないような独裁的政治の実態が、この10年近く、この国では堂々とまかり通ってきた。その「負の遺産」は、あまりにも大きい。

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