首相待望論について

最近ツイッター上で日本共産党・志位委員長の首相待望論があるのを目にして驚いた。確かに同委員長は小沢政治塾の講演で、野党連合が政権をとって首相になる人がいない場合は自分がなってもいい旨を公言している。政党として98年もの歴史の中でただの一度も与党経験をもたない政党のリーダーが、いきなり首相になってもいいと公言しているのだ。おそれ多いとしか言葉が見当たらない。その底に、どす黒い権力欲が横たわっているのは確かだ。一方で、ネット上の記事では公明党の山口代表を次の首相に推す記事も出回っている。山口代表は志位委員長と違って、自ら首相になってもいいといったことを述べたことはただの一度もない。私は社会新報記者時代に、村山富市という社会党党首が首相になった姿を見知っているが、第一党でない政党から首相を出す場合、官房長官も同じ政党から出すのが通例だ。村山総理の場合は五十嵐広三というまたとない逸材がいて最初の官房長官をつとめた。内閣の性格やイメージは官房長官に大きく左右される。いまの公明党にそのような逸材がいるだろうか。まして山口代表は参議院議員だ。憲政史上例のない参議院議員からの首相となるが、そのようなことを国民は認めるだろうか。話はさておき、共産党の志位委員長を首相に担いでもよいとする意見は、同党の長年にわたるソフト・イメージ戦略に騙された結果にほかならない。日本共産党は白鳥事件など、罪のない人間を組織的に殺害し、その責任を何ら負っていない政党だ。そんな政治勢力が政権与党に入る「資格」などあろうはずもない。身のほど知らずもいいところだ。

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