党史から抹消された名護市出身の徳田球一

本日付のしんぶん赤旗に自由法曹団の団長ら40人が名護市長のもとを訪れ、激励したことが報じられている。自由法曹団といえば、社会問題に関わる重要な訴訟に関わる共産党系の弁護士集団として知られるが、この組織の設立に密接に関わった法律家が当の名護市出身の人物であったことは今ではあまり語られない。名前を徳田球一(1894-1953)といい、戦前の社会派弁護士として活躍するかたわら、1922年の日本共産党の創設にあたり、多大な貢献をした人物でもある。戦後は日本共産党の初代党首(書記長)として活躍したものの、いまの同党の歴史においては宣揚されることはまったくない。

現在の同党は、徳田の対立派閥にほかならなかった宮本顕治およびその弟子(不破哲三、志位和夫ら)が主流を占めるため、党の歴史から抹消されているのが実情だ。

徳田は無類の酒好きで、人格面には大きな欠陥もあったようだが、破天荒な行動の同人を愛した議会人も多く、演説のうまさで戦後の一時期、同党を大きく伸ばしたこともある。ところがソ連や中国共産党の指令を受けて、同党は日本国内で武装闘争革命(=暴力革命)を試みた結果、当時の大衆から総スカンをくらい、一時期の共産党は壊滅状態に陥った過去を持つ。

徳田はその責任を一身に背負わされ、党の歴史から都合よく消された「悲劇の人物」にほかならない。関心ある向きは、杉森久英著『徳田球一』(1964年)などを手にしてみると、その人となりがうかがえる。

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