談話は出さずとも

本日付東京新聞社説で「戦後80年談話は意義がある」を読んで、いまいちど戦後50年の村山談話を読み直した。保守派から蛇蝎の如く嫌われ、腐され続けるこの談話には先の大戦によって「アジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました」との客観的事実が記されている。このこと自体はだれも否定することはできないだろう。さらにその原因について「植民地支配と侵略によって」とも書かれている。これもよほどの屁理屈こきでない限り、客観的事実として受け入れられる文言だろう。問題はこれらの客観的事実を基に、次のように述べている点だ。「ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」。これらは客観的事実でなく、主観的な気持ちを表明した部分にほかならない。戦後50年の節目に、事実を述べた上で自らの主体的な気持ちを何も述べないということはありえなかったはずだ。なんらかの自省の言葉と、未来に向けた決意の言葉が必要だったが、時の社会党首相はそれを「痛切な反省の意」と「心からのお詫び」という文字で表現した。当時はまだ戦争時代を体験した人たちが多く生きていた時代だ。それらの人たちに「お詫び」の気持ちを表明したのは意味のある行為であって、何ら問題はなかった。おそらく問題とされるのは、「痛切な反省」を敗戦国だけが余儀なくされ、戦勝国はそのような反省をしていないという不条理観念から生じる談話批判だろう。なぜ日本だけが反省しなければならないのかという反発の気持ちだが、それは、相手がそうしないからオレたちも何もしないという傍観的な理屈でしかない。かつての一時期、日本がアジアの民衆に非道な行為を重ねたことは客観的事実であり、「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め」という言葉にも集約される。

 石破首相が談話の発表を取りやめたことは残念だが、上記の村山談話には事実認識の誤りは1行もなく、主観的な気持ちの表明に関し、受け取り方に差が生じたにすぎない。その点は、河野談話もまったく同様だ。石破首相は村山談話を含めた客観的史実を基に、自らの主体的な意志(未来志向のメッセージ)を、適切な時期に堂々と表明してほしいと念願する。

<ぎろんの森>戦後80年談話は意義がある:東京新聞デジタル

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