文章は駄本の『尖閣1945』

私の文章の師・大隈秀夫は文章の中に「のである」という表現を使うことを極端に嫌がった。教え子が一カ所でもその表現を使うと、注意するのが通例だった。「のである」は単に文章上の強調表現にすぎず、無くても成立する用語にすぎないからだ。スリムで無駄のない文章を好んだ恩師は、この語を多用するような初心者を見つけると、相手に「君は『のである病』だ」といって叱責した。いま思うに、文章は事実(ファクト)とスリムな表現で構成されるべきであり、文章技巧でそれを膨らます行為は、邪道と考えていたフシがある。

そんな教えを聞いて育ったので、私は極力この表現を使わない。だがある本を開いてその多さに圧倒された。門田隆将著『尖閣1945』の文章だ。昨日私があらためて確認したところ、この本には「のである」という表現が少なくとも「180カ所」登場する。2ページにつき1回以上の割合で「のである」が出てくる計算だ。文章の師がこれを知ったら卒倒しただろう。

門田隆将といえば、オレがオレがの唯我独尊タイプの典型だけに、オレがの心情がそのまま「のである」との強調表現に直結するのだろう。つまり書き手の精神状態がそのまま文章に反映されている姿ともいえる。恩師はこのような肩肘張った文章を嫌った。要するにファクトが希薄で著者の気負いだけが強く、文章技巧でそれを補おうとする精神構造がそのまま現れた結果ともいえる。なおかつこの本で書かれている情景描写は著者の妄想が多く混じっていて、純粋なノンフィクションともいえない。正確には「小説」まじりの詐称作品というべきか。

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