党員である事実を隠した瀬長市長

昨日は沖縄人民党が日本共産党に合流した1973年10月31日から50周年ということでしんぶん赤旗が社説で取り上げていた。本日付でもその内容を大々的に記事にしている。同党にとって沖縄はいまも大きな宣伝材料にほかならない。

同党が戦後最初につくった綱領(「51年綱領」と呼ばれる)のもと、武力革命の真似事を始めたのが51年末から52年にかけた半年ほどの時期だった。この間、全党あげて党員に火炎瓶の製造方法を具体的に指南し、2人の警察官が殺害される。当時、沖縄は米軍の管理下にあったため、そのような行動をとっていなかった。そのため、本土では国民から一気に共産党の支持がなくなったのに対し、沖縄ではそのような急変的な「現象」が幸いにして生まれなかった。不幸中の幸いといえばそれまでだが、その影響は今もつづいている。

沖縄人民党の指導者であった瀬長亀次郎は、実際は1931年、24歳のときに本土で入党しており、戦前から日本共産党員だった。だが米軍のもと、その事実をひた隠しにし、那覇市長に当選した1956年以降も、その状況は変わらなかった。私は沖縄のある空手家の評伝を執筆するため当時の那覇市議会の議事録に目を通したが、このとき瀬長は自身が共産党員である事実を一切認めていない。要するに、ウソも方便といったところだったのだろう。だがこれは議会における正式答弁における回答だったから、公職者である市長としては“虚偽答弁”そのものだった。本人が共産党員であった事実を公言するようになるのは、冒頭の「合流以降」のことだ。沖縄人民党という合法政党になった段階でも、事実と正反対のことを答弁していた公職者。その行動の評価は後世において厳しく変わる可能性がある。

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