村田兆治と村上国治

2人の名前はよく似ている。プロ野球の名物ピッチャーとしてならした村田兆治の名を知る人は多くても、後の村上国治(むらかみ・くにじ)の名を知る人はむしろ少ないだろう。まったく違う分野で生きた2人である。共通するのは名前だけではなく、晩年の亡くなりかたが同じであったことだ。そうでなければここで取り上げようという気持ちにもならなかった。村田兆治さんが世田谷区の自宅2階から出火し、パジャマ姿のまま亡くなったと報じられたのは昨日のことだ。享年72だった。一方、村上国治氏も埼玉県大宮市の自宅2階から出火し、焼死している。あと一カ月で72歳となる年齢だった。名前、亡くなりかた、享年の近さ。

亡くなる前に村田元選手は羽田空港の保安検査場で検査員とトラブルを起こし、暴行容疑で逮捕されていた。一方、村上国治氏も亡くなる10年ほど前、自転車泥棒で新聞沙汰となり、職場を追われ、わびしい晩年を送っていた。自身で起こしたトラブルで気落ちしていたとみられる点も共通する。2人が亡くなった11月という月も同一だ。

村上国治は日本共産党札幌委員会の委員長として、当時の同党の全国的方針であったテロ活動に邁進し、地元札幌で共産党対策の辣腕を振るっていた白鳥一雄警部(札幌中央署)を殺害する計画を立て、北海道大学に在籍する学生党員らを使い、既遂に及んだ人物だった。それでいて逮捕・起訴されても、最後まで「知らぬ存ぜぬ」を決め込み、党内はじめ革新勢力の中では「冤罪事件の英雄」のような存在として位置づけられた。共産党委員長の宮本顕治も、「北の村上、南の瀬長」と持ち上げた時代があるほどだ。

それでもさまざまな状況証拠から、日本共産党が組織的に白鳥警部殺害に手を染めていた事実が明らかになるにつれ、村上氏の立場は微妙なものになっていった。職場での疑心の目、さまざまな変化。そんな中で同人の自転車泥棒は起きている。さらに生涯かけてエネルギーを注ぎ込んだ当の共産党から見捨てられる形となり、最後は自殺とも疑われる不審火によって亡くなった。その生涯を俯瞰すると村上国治氏は明らかに、日本共産党の犠牲者だった。

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