1955年

表題の年はいわゆる「55年体制」といって、自民党と社会党がそれぞれ分裂していた党を合流させ、その後長らくつづく日本の政治体制を確立した年として知られる。日本社会党は同年10月の党大会で右派社会党と左派社会党が合流。それを受けて翌月、自由党と民主党が合流し、現在の自民党が出来上がった。すでに日本社会党という名前の政党は消滅しているが、その流れはいまも残る。ここで取り上げたいのは同年7月、この両党よりも先に統一を果たした政党があったという事実だ。いうまでもなく日本共産党である。

1950年に「所感派」と「国際派」に分裂した同党は、1955年7月末の第6回全国協議会において統一を果たす。その5年間に何があったか。全国的な「テロ行為の奨励」であり、そのための綱領である「51年綱領」の策定だった。第6回全国協議会では、この軍事綱領は一切否定されることなく、むしろ天まで持ち上げるという態度がとられた。持ち上げた重大責任者の一人が現在の日本共産党を形づくった宮本顕治氏だ。日本共産党にとって都合の悪いこの綱領が放棄されるのは、実は1958年の党大会まで待たなければならない。

本日付の産経新聞はこの綱領が「55年に放棄」された旨記載しているが、まったくの誤りであり、事実は正反対だ。こういう記事を目にすると、産経新聞には本来の重要な取材対象であるはずの日本共産党を取材する専門記者がいないという現実を自ら世間に周知させるようなもので、新聞の権威失墜を意味する。

【強権解剖】⑥親密・仲違い繰り返す〝兄弟党〟 日本共産党の「ご都合主義」 – 産経ニュース (sankei.com)

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