「敵」というレッテル貼りについて

中国を「敵」とみなして盛んに振る舞っている者がいる。世の文化人という中の一部にそういう人間がいる。物事を短絡化させることはわかりやすさにつながる。そのため昔からファシズムには短絡化は不可欠で、敵と味方に二分化する手法が有効・不可欠であったことはナチスのユダヤ人虐殺を例に出すまでもない。人間についてのレッテル貼りも同様だ。世の文化人と称する人間には、自分を「リアリスト」、相手を「ドリーマー」などと勝手に格付けし、我尊しと振る舞っているバカ者もいる。だが人間というものは、一つの語で規定できるほど、単純な生き物でないことは言うまでもない。要するに、一人の人間においても「リアリスト」の部分と「ドリーマー」の部分が混在するのが普通であって、それが人間という生き物なのだ。つまりこれは相手をけなすためのツールとして使用されているのであって、建設的な意味で使われているわけではないことだけがはっきりしている。冒頭の話に戻ると、中国の領海侵犯や周辺民族への対応などが負の側面であることはいうまでもない。ただしだからといって、国家そのものを「悪」認定することは、はなはだ危険な行為であり、ひいていえば日本を危うくする行為というほかない。こうした懐の浅さは、逆に自分を追い詰めることにつながるからだ。「いのちの敵」だの、「ドリーマー」だの声高に主張している人間に限って、要は、レッテル貼りという印象操作を行い、自己正当化を図っているにすぎないともいえる。我尊し、そういう人間に限ってこの言葉を多用している。

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