記者としての眼力

何が真実かを見抜く目というものは、記者としての経験も当然ながら必要だが、なによりも「眼力」を左右する重要なファクターは記者の内面に宿っているという事実だろう。例えば誤報を導きやすいものの一つが、記者としての「功名心」にある。つまり、性格的にイケイケドンドンの記者はそうした傾向(罠)にはまりやすい。その典型の一つが、門田隆将が週刊誌記者時代に起こした信平狂言事件である。

この事件における信平信子の「被害」の訴えには、政治的な謀略が隠されていた。要するに特定個人のイメージを失墜させたいとの思惑をもった宗教的・政治的な打算である。

この報道被害が戦後最大の被害の一つと思われるのは、こうした邪まな目的のもと、あえて事件なるものが「作出」された点にある。つまり、ゼロから100を作ろうと画策した人間たちがいたわけだ。仮に似たような事案を本人が起こしたとして、そこから多少脚色したといったことでもない。もともとがゼロなのだ。

そうした事件が被害の訴えとしてもたらされる中に当然含まれることを想定しなければならない「記者」という職業にある者には、記者として真実を見抜く目、つまり「眼力」が何よりも求められる。結論として、門田隆将こと門脇護には、それが決定的に欠落していた。それが信平狂言事件という世紀の大虚報が後世に教訓として示した動かない事実である。同人の傾向性はいまに至るも何も変化していない。目立ちたいだけで、恥知らずな主張をいまも延々と続けているさまは、後世の「冷静」な人たちが精査すれば、おのずと真実がわかることだ。

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