瀬長亀次郎の不都合な真実

沖縄県の革新陣営のシンボルとなっている瀬長亀次郎(1907-2001)は沖縄人民党時代、那覇市長の要職にあったときも自分が共産党員である事実を否定し続けた。だが沖縄が本土復帰し、人民党がそのまま日本共産党に「全面合流」した後、日本共産党の系列出版社から出した自身の回想録においては、すでに23歳のときに神奈川県で入党していた事実を明らかにしている。要するに「公職」にあったときには「私は共産党とは何の関係もない」と公然と虚偽を述べ、問題がなくなったとみるや「実は早くに入党していたのだ」と真実を述べたという経緯である。これがウソも方便というレベルで許されることかどうかは、有権者の民意に委ねて構わない。以上は瀬長に関する政治的な意味での「不都合な真実」だが、同人にはもう一つ、不都合な「私的な事実」が存在する。同人は1907(明治40)年生まれ、同人の長男とされる人物は私が確認したところでは1924(大正13)年生まれなのだ。どういうことかといえば、瀬長亀次郎が16~17歳のときに、長男が生まれたということだ。当時、瀬長は旧制県立二中(現在の那覇高校)の4年生で、これが原因と思われるが、ハワイに出稼ぎに行っていた父親に呼び出され、中学を中退。東京の中学に転校して、そこで卒業することになる。だが瀬長は自身の回想録ではそうした経緯の理由については何もふれていない。要するに、自身に関する「不都合な真実」にあえてふれていないということになる。 当人は明治時代の生まれの人なので、いまの感覚でどうこう言うつもりなど毛頭ない。だが瀬長亀次郎という沖縄が生んだ一人の政治家の人間形成の過程を振り返るとき、通常とは違った苦労を味わい、民衆の心に寄り添うことができる「感性」を育んだ大きな要因として、この事実はけっして無関係とは思われない。実際、この長男は、亀次郎本人の葬儀でも葬儀委員長を務めている。唯一正妻の子ではなかったと思われるこの長男が、道を踏み外すことなくきちんと父親の後を継いで共産主義者となり、その子(亀次郎の孫)もまた、現在同党の県議をつとめる。私は別の意味で立派なものだと感じる。亀次郎の人間的な偉さがそこに宿っていたと感じるからだ…。

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