物書きとして「評伝」を書いたことのある人とそうでない人の差は大きいと感じることがある。一度でもだれかの一生を書けば、その人物の生まれから死ぬまでを追いかけることになる。人物の裏にはその人物が生きた時代的背景というものが存在する。一人の人物がいかにその時代の制約のもとで生き、その時代であったからこそ能力を発揮できたあるいは発揮できなかったかを後世の客観的な眼で観察できるからだ。私は1965年という戦後20年たってからの生まれだが、当然ながら「戦後世代」であり、戦中体験がない。そのような人生と、昭和初期から生きて、戦争を生活の中で体験してきた世代とでは、時代的制約は大きく異なる。同じ能力で生まれたとしても、生きた「時代」状況によって人生は大きく左右される。評伝を書くと、そのような視点が明確に自分の中に芽生えると私は感じる。私の場合は、沖縄の20世紀を生きた空手家の生涯を描かせてもらうことによって、さらに北海道の大正生まれの2人の人物を追うことによって、「時代」をまざまざと感じさせられた。ひとはどの親のもとに、どの時代に、どういう境遇で生まれ合わせるか、自分で決めることはできないと一般的には思われているが、教団ではそのように考えない。自分の好きな時に好きな姿で生まれてくることができるとする考えがあるからだ。話が散らかってしまったが、戦後80年、曲がりなりにも戦争を繰り返さずに済んだこの国の「戦後」を、今後も途絶えさせてはならないと感じる。