阪神淡路大震災から30年

過去にも同じことを書いてきた気がするが、私と文章の師・大隈秀夫は43年の時空をへて同じ日に生まれ、同じ県で育った因果がある。先生は1922年生まれ、私は1965年だ。出会ったころは1990年代の初頭で湾岸戦争が始まったのが1月17日だったので、そのことが作文の赤字添削の脇書きに添えられていたことがあった。元首相の大隈重信の縁戚にあたった先生は現在の神崎市の出身で、大隈一族の中では分家というか傍流であったためかえって本家に反発し、重信がつくった早稲田大学には一人も入っていないと語っていた。そのため東大→学徒出陣→九大→西日本新聞記者という経歴をへて、独立してフリーの物書きになり、なおかつマスコミをめざす生徒らの文章指導を行い、その大家的存在となっていた。一方の私は佐賀県出身の関係もあり早稲田大学に進んだ。この年齢になって最近しみじみと感じることは「師恩」ということである。何より戦争体験を折々に直接聞く機会を持てたことは貴重なことだった。多くの同年代しかも優秀な若者たちを戦争で失ったこと、自身も死ぬ寸前の攻撃を受けたこと、20代そこそこで多くの兵士の生命を預かるというこれ以上はない戦時体験をしたことなど、平時にはおよそ考えられないものだったことをしみじみと述懐していた。私は60となり、先生は103歳でどこかの施設で過ごされているはずだが、1995年以降は阪神・淡路大震災が1月17日の象徴となる。当時私は社会新報の記者で、2月に入って取材に向かった。義理の母親から借りた携帯御本尊を握りしめ、2週間ほど取材した思い出がある。

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