人間は自分に近しい関係者の不祥事を広められることを好まない傾向がある。「身内の恥をこんなところで話すな」といった言葉はその象徴だ。この場合の身内は家族関係を意味するが、それが自分の所属する組織や団体でも適用されがちだ。それでもそれが社会性をもつ話題となると、単純ではなくなる。鹿児島県警の職員不祥事を県警トップが隠蔽しようとしたと告発された問題も似たようなものに見える。もともと隠蔽体質をもつとされる警察組織で、都道府県のトップがそのような隠蔽を自ら行っていたとなれば、警察の全国トップにはこの人物を懲戒処分にして全国に綱紀粛正を図るべき義務が生じる。同じように隠蔽体質をもつ最たる存在は軍隊だろう。かつて中国大陸で旧日本軍は強姦・殺戮・略奪を欲しいままにしてきたが、生き残って帰国した元兵隊たちは「身内の恥」をけっして家族にも社会にも広めなかった。そのため配偶者でも自分の旦那が戦地で何をしてきたかは知らないケースがしばしば生まれた。だが被害体験は世代を超えて継承されるのに対し、加害体験はこのような状況なので世代間継承がうまくなされない。日中間に横たわる大きな問題は、この加害体験を「認識」していない人間が多いこともある。「身内の恥」意識は、事実をねじまげて理解しようとする人間の性質にうまくフィットするが、その結果、見たくない事実を過小評価し、自己に都合のいい事実を過大評価する傾向が強くなる。こうした顛倒した状況を正すのは、正当なジャーナリズムの役割にほかならない。具体的には『WiLL』や『Hanada』とは“対極”にあるジャーナリズムだ。