共産党は「平和・人権の党」か

政党機関紙から独立してフリーランスで活動を始めた97年、私は「しんぶん赤旗」の購読を始めた。それまでほとんど深く取材することもなかった日本共産党だが、仕事上の取材対象の一つとなったからだ。当初は耳障りのいい同党の主張を鵜呑みにしていた。今から思えば、取材者としては 全くの“ど素人”状態だった。見かけと本質を見抜く洞察力を決定的に欠いていた。若かった。だが同党とつかず離れず27年間見つめて来た結論からいえば、同党が「平和の党」「人権の党」であるかどうかと聞かれれば、今なら「本質はそうではない」と断言する。見かけとしては確かにそのようなカムフラージュを行って集票している側面があることは事実だが、本質はそうではない。それはこれまでの取材の蓄積に基づく私なりの確信ともいえる。またその事実は、現在の同党の姿からもだれの目にも明らかだ。同党には異論を受け付けない根強い体質がある。建設的異論を述べても、排除される。果ては村八分にされる。吊し上げられる。政権に入る前からすでにそのような状態を示している政党が、仮にまかり間違って国政権力を得た場合、当然ながら国民・有権者が同じ目に遭うことは明らかだ。それは旧ソ連や社会主義国で広く見られた“惨状”がそのままこの国で再現されることにすぎない。この危惧は党内の良識的な党員・元党員の方々にも共有されているようだ。最近はそのような主張をSNS上でもしばしば目にする。現在の同党が、党内統制を強めている状況にある中、良識ある党関係者による党執行部批判を「反共」と位置づける姿勢も顕著だ。そのあり方に、私はネトウヨが日本に批判的なことを言うと感じたらすぐに「反日」などの言葉で条件反射するのと瓜二つの体質をみる。両者に共通するのは、深い知性を欠いていることだ。日本共産党がすぐに暴力革命を起こすという事態はもはや考えられないとの擁護論があるのは承知しているが、立憲民主党の状況的大躍進などに伴ってスルっと政権内に日本共産党が入り込む可能性をゼロとは楽観していない。行き着く先は、すでに上で述べた危惧とそのまま重なる。共産主義という「生き物」は、おしなべて世界で共通する同じ生き物と私は考えている。一つの結論は、同党が日本社会で生き残りを図りたいなら、同党の独裁的体質の源となっている「民主集中制」を廃棄できるかどうかが一つのバロメーターとなる。あるいは現在の姿のまま、野党に特化した形で、政界の“便所掃除係”を続けるかだ。同党が国政権力に関わらないとの意思が明確であるのなら、私自身は同党が現在の体質のままでも文句を言うつもりはあまりない。

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