「愛は勝つ」の思い出

あの曲で一世を風靡した方の訃報が昨日報じられた。小生とこの曲は、カンボジアPKOの思い出と分かちがたく結びついていて離れることがない。92年に自衛隊を初めて国外派遣した日本政府のPKO活動の、カンボジアでの最後の締め括りの仕事は民主的な選挙の実施だった。選挙は93年5月に設定され、日本からも選挙監視団が編成される。

当初50人規模の予定だったが、最終的に41人に減った。理由は4月9日に国連ボランティアで現地活動中だった日本人男性・中田厚仁さん(享年25)が凶弾に倒れ、さらに5月4日には文民警察官らの乗った車両が現地で銃撃されて岡山県警から派遣されていた高田晴行さん(享年33)が亡くなったからだ。選挙監視団は93年の年頭に編成され、春の研修をへて5月の現地派遣を予定されていたが、その直前に2人の死亡が伝えられ、選挙監視団に内定していたメンバーに当然ながら動揺が走っていた。そんな折、よく飲み会が開催され、きまって事務局の主要メンバーの一人がカラオケで熱唱したのが「愛は勝つ」だった。
「君の勇気が誰かにとどく明日がきっとある」

「どんなに困難でくじけそうでも信じることさ」

「必ず最後に愛は勝つ」

監視団メンバーを鼓舞する心境と完全に一致した歌詞だった。当時、PKO本部の事務局は各省庁から派遣された若手精鋭で構成されていたが、その歌を必ず口にしたのは陸上自衛隊から派遣されていた、エリートではない叩き上げの自衛官だった。彼がいなければ、41人はもっと減っていたのかもしれない。私が言いたいのは「多様性」の大事さだ。同質化された組織や社会ほど、実はもろいものはない。中央省庁の役人気質とはちがう異質の存在があったことで、ミッションは救われた面があったという教訓である。

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