愛国ノンフィクションの限界

ノンフィクションの分野に「愛国」という要素をたぶんに取り込んだのは門田隆将という作家を嚆矢とする。要するに「国威発揚」を目的として構成されるノンフィクションのことだ。例えば過去の戦争を描く場合にはそれは特定の人物に焦点をあて、その人物の功績を過度に強調することで構成される。いうなれば意図的な目的のもとに作られるノンフィクションということがいえる。こうした作家を私は「活動家作家」と名付ける。事実に忠実に人類の普遍的な価値や原理を描くのではなく、特定のイデオロギー(彼の場合は靖国イデオロギー)を宣揚・普及することを目的に、全体の膨大な事実の中から自説に都合のいい事実のみを取り出し、特定の結論に誘導しようとする。そうした作為的な作品群に、情報弱者の読者は巧みに騙されていく。実際、現代日本はそうした特定ノンフィクションのほうが手に取られやすい時代だ。つまり売れやすい。だから彼らは「ビジネス保守」(略してビジホ)などと呼ばれている。

門田ノンフィクションの特徴は、主人公を持ち上げるあまり、英雄譚が多くなることだ。複数の台湾もの、原発もの、戦争体験者の物語など、その多くが主人公を過度に「美化」することで成り立つ。だがそれらは繰り返すように事実の中の「限られた一部」で構成されているものにすぎない。

結論するに、こうした特定イデオロギーに支配された作品群は、その意図を見破られた後はあまり見向きもされなくなるだろう。要するに普遍性に乏しいからだ。例えばこれを日本以外の他の国の読者に読んでもらえるかといえば、必ずしもそうとは限らない。「日本人はすごい」とばかり強調する意図的な物語が、世界で認められるわけもないからだ。

要するにそれらは「作られた物語」で日本人読者に売り込みをはかろうとする自慰的行動にすぎず、それこそが「活動家作家」の証しである。そんなお粗末な作法が通用する時代は終わりつつある。

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