東村山市議の闇4 矢野と朝木明代

矢野穂積と朝木明代の関係については宇留嶋瑞郎著『民主主義汚染』(1998年)に詳しい。それによると2人が初めて知り合ったのは1975年。互いが30歳前後のときだったという。同書に次のようにある。「朝木明代と矢野穂積が親密な関係になっていくのはその翌年のこと」。さらに82年の終わりごろ、喫茶店の2階に活動拠点としての事務所を借りた。この場所は「矢野と明代の活動の拠点となっただけでなく、2人がプライベートな関係を深めた場所でもあったようだ」と意味深な表現で指摘している。このころ矢野が35歳、朝木明代が38歳だった。一方、転落死事件に対する逆の立場の人間だが、乙骨正生著『怪死』(1996年)では2人の関係について次のように書いている。

「誹謗中傷の極めつけにあるのがW不倫情報。朝木さんと矢野さんは、以前からW不倫関係にあり、2人が性交渉していた声が、事務所から漏れていたなどとの噂が、東村山市内では、創価学会・公明をはじめとする反『草の根』グループからまことしやかに流されているのである」

ここで私は2人が不倫関係にあったかどうかの事実を詮索するつもりはない。指摘しておきたいのは、乙骨正生という人物が自らの著作の中で、矢野穂積と朝木明代の関係性もしくは疑惑を端的に記述した事実であり、その後、矢野側が乙骨正生を名誉毀損で提訴した事実もなかったという経緯である。こうしたプライベートな関係は、実際は証明するのは簡単ではない。

だがその後の朝木明代の万引き行為を考える際、上記のような個別的な背景を心的要因の一つとして無視することができないのも現実だ。1995年当時はまだ「窃盗症」「窃盗癖」「万引き依存症」という言葉や概念は一般的なものではなかった。そのため乙骨などは、取材の際に朝木明代らが喫茶店代をきちんと割り勘にする姿を見て、「朝木さんが万引きなどするはずがない」と信じ込んでいた。だが万引きは金がないからするだけの行為でないことは現在ではもはや常識だ。ストレス発散のための行為として、常態化する傾向が知られている。

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