型の変容過程 沖縄から日本本土へ(上)

20世紀初頭、糸洲安恒は首里手の代表的な型、パッサイ・クーサンクー・チントウの動作の中から目つぶしなどの危険なものを省き、その要所をつなぎあわせてピンアンを創案した。目的は中学生レベルの初歩的な型を必要としたからである。沖縄県の中学生を対象に空手が教育用に普及されることになったからだ。この型はそのまま10数年後、東京で空手普及を始めた船越義珍によって日本本土に持ち込まれた。ただし東京では対象が血気盛んな学生の年代であったためか、型の反復練習のみに飽き足らず、組手主体の練習が持ち込まれ、型も勝手に動作が改変されていく。それがそのまま本土では、ピンアンの型として継承された経緯がある。沖縄に残るピンアンと本土のピンアンが異なるのはそのためだ。動作や趣旨も似て非なるものといってよいくらい違うものだ。

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