魔性を切るつるぎ

昔、創価学会員のある全国紙記者から聞いた話だが、「私は恥ずかしい話、いまでも1時間題目をあげないと満足いく記事を書けないんですよ」というのがあった。私も似たようなところがあって、題目が不足すると、頭の中で文章がまとまらないところがある。とくに「攻防戦」と呼ばれるような分野はそのことが顕著で、生命論的にやるかやられるかという次元の話になると、結局はこの唱題の量と質が最後の決め手となる。私は仏法の論理からいって、この種の原稿を書く作業も、国会議員の身の回りで生じる魔性も当然同じことだと考えている。公明党の国会議員の中で時折不祥事を起こして堕ちていく人がいるのは、そもそも信力が不足しているか、あるいは信心強情な人であっても油断すればそうなるというわかりやすい事例と感じている。浜四津敏子元参議院議員(元公明代表)が寸暇を惜しんで1万遍の唱題を維持していたというエピソードは、この道理に照らせば「王道」といえる。公明党議員でも、不祥事を犯さないまでも心の中身がどこまでも権力寄り(楽な方向)に流れ、民衆のことや、困っている人の心情を慮ることのできない議員を今も散見する。根っこは同じ問題だと感じている。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。