日航機墜落事故から40年となる朝である。1985年8月12日夕刻、私は大手町の日本経済新聞社の編集局にいた。当時、アルバイトをしていたからである。共同通信のピーコ(速報)でその事故のことを聞いた。それから編集局内は騒がしくなり(私のバイト先は社会部ではなかったので、極端ではなかったが)、日経関係者も同乗していたなどの話が飛び交った。私が大学3年生のときだ。このころ、新潮社の社員として「週刊新潮」に配属されていた門田隆将こと門脇護は、事件の報を聞き、すぐさま現場に駆け付け、現場に一番乗りしたとの武勇伝が同編集部内で語られてきたと聞く。だが同人はノンフィクション作家として独立後、この問題をテーマにした作品で大きなヘマをやらかす。遺族が書いた手記を作品に引用する際、出典を明記せず、そのままキーワードとなる言葉を含めて自分の作品に記載したからだ。遺族から著作権法違反で提訴された同人は、一審、二審、最高裁とも連続して負けつづけ、司法から「盗用男」として断罪される結果につながった。最高裁の断罪から数えてすでに10年をすぎたが、同人は何事もなかったかのように今も平然と仕事をつづけている。この業界は、並みの神経の持ち主では長つづきせず、いかにツラの皮が厚いかだけを試される業界と言い替えてもよさそうだ。そういえば、アウシュビッツにガス室はなかったという稀代のデマで文藝春秋社を追われたオッサンも、平然と仕事をつづけている。これが日本のメディア業界のレベルであり、実態なのだ。