権力の私物化と情報の私物化

そもそも国家権力は構成員の幸福を追求するために存在する。これは理想論だ。公平で私心なく、未来のことを見据えて手を打ち続ける指導者は極めて稀だ。逆に自らの欲望(名誉欲)のために権力を濫用する指導者は後を絶たない。近年の日本では「一強」と呼ばれた安倍政治がその典型であった。一度ぶざまな形で首相を退いた経験がある安倍氏は、二度目は同じ轍を絶対に踏みたくなかったのだろう。権力に固執し、国会ではとうとうと嘘の発言をつづけただけでなく、自らの利益にかなう文書改竄を半ば容認し、関係者を処罰することすらしなかった。まるでどこかの社会主義国であるかと見まがうような「腐敗」ぶりだった。一方で、海をへだてたかの国は政治体制がもともと異なる。過去の一人独裁が人民にどのような弊害を与えるたかとの実際の教訓をもとに「集団指導体制」を構築し、これまで何とか国家運営が維持されてきた。だがその時代も終わりに近づきつつある。イエスマンだけをはべらせ、忠言を述べる側近を排除する姿勢が顕著だからだ。これでは判断を大きく誤るリスクが格段に高まる。かの国も、その周辺国も、そのリスクに対処する必要が生じる。

「権力の私物化」と「情報の私物化」はイコールとして結ばれている。だからこそ、その国の民主主義の定着度合いを判定するには、情報公開のあり方を見れば一目瞭然だ。習近平と安倍晋三。対極にあるはずの二人の政治指導者に似ている点があるとすれば、公益よりもむしろ私益に流されてきた点である。その明白な証拠が、後継者を育成しようとしないこと(しなかったこと)であろう。今さえよければそれでよい。日本政治はいま、その結果の最中にいる。

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