靖國派が事実に反して認めたくないもの

靖国神社が日本の「戦争神社」として機能してきたことはよく知られている。この神社は古代からあったわけでなく、明治維新とともに開設された「国策神社」にすぎない。戦争で死亡した国民が無駄死にであっては恰好はつかない。戦った戦争が意味のあったものであり、無謀な戦争という真摯な反省は決して生まれない構造となっている。だから靖国神社では、南京虐殺事件への反省はみじんもない。むしろ逆に、南京事件はうそっぱちという本が堂々と売られている。靖国派がけっして認めたくないものが、この南京事件と、慰安婦強制の問題だ。靖国派にも2種類あり、南京事件は「濡れ衣」と活字にするような櫻井よしこのようなモウロク女性もいれば、ベストセラーの歴史本と称し、その宣伝に努める浅はかな小説家や編集者もいる。一方で、南京事件のようにわかりやすい靖國流デマは用いず、慰安婦問題で都合のいい主張を行ってきたのが門田某こと門脇某だ。慰安婦が特別に待遇されていたと主張したいばかりに、軍司令官並の収入を保証されていたという荒唐無稽のデマを垂れ流してきた。軍の司令官と同じ給料を数万規模の慰安婦が保証されていたのが事実なら、国家はとっくに破綻していたはずだ。戦争遂行など無理だっただろう。こうした「一般常識」でもすぐにデマとわかるようなデマを、靖国史観は安易にもたらす。ねじまがった歴史観の国家は、未来を自らダメにしているようなものだ。なんら歴史の教訓から学び取ることはできず、ひとりよがりの旧日本軍の生き方を繰り返して見せるだけである。

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