空手の本土上陸

沖縄の伝統武芸であった唐手(空手)が日本本土に本格的に上陸するのは1922(大正11)年のことである。東京・お茶の水で文部省主催の第1回運動体育展覧会という催しが開催されることになり、そこで沖縄の空手についても出品する流れとなったため、沖縄で小学校の教員をしていた富名腰義珍(当時53歳)という空手家が県から派遣されることとなった。会場はJRお茶の水駅に近い現在の湯島聖堂の敷地内にあった教育博物館という建物で、そこにさまざまなスポーツに関する展示物が陳列された。富名腰も3つくらいの空手に関する説明用の掛け軸を事前に作成し、出品したとされる。

開催期間は4月30日から5月30日までの丸1カ月だった。『松濤館50年のあゆみ』の年表に記載されているところでは、上京したのは5月6日となっているが、根拠が示されている記載ではない。この会場で観客らの応対をしたのをはじめ、随時、演武会なども開催されたようだ。そのとき、嘉納治五郎の勧めで、柔道の総本山である講道館でも唐手演武会を開催している。その後、嘉納の勧めで東京にそのまま残り、富名腰は生涯を空手普及にかける人生となった。

実はこのとき会場となった教育博物館は、もともとは東京高等師範学校(小学校の教員を育成する学校)の付属機関で、この東京師範学校(筑波大学の前身)の校長を長年務めていたのが教育者でもあった嘉納治五郎だった。余談だが、嘉納は中国人留学生のための教育機関・弘文学院の校長を務めたこともある。

つまり、沖縄から人間を派遣するように求めたのは嘉納であった可能性が大であり、唐手の知識をもたない文部省が単独でそのようなことをおこなったとは考えにくい。本土での空手普及の陰には、柔道の総帥の強力な働きかけがあったことは明らかだ。前回の東京五輪で柔道が初めて正式種目となり、今回の東京五輪で空手が初めて正式種目となったことは、たいへんな因縁の巡り合わせに思える。

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