火炎ビンの先駆けは日本共産党

東京大学の学生運動の象徴ともいえる「安田講堂事件」から50周年ということで、この関連の記事が新聞紙上でちらほら目立っている。今日付の東京新聞では、元機動隊員が「火炎瓶や石が雨のように降り、講堂前は火の海になっていた」と証言している。実はこの安田講堂の火炎瓶、さかのぼれば、そうした路線を引き、温床となったのがかつての日本共産党であったことはあまり語られない。実際は共産党の火炎瓶作戦はそれよりさらに20年近くも古い67年前。その意味で、同党は日本国内における火炎瓶作戦の「創始者」であり、「大先輩」なのだ。当時、全国規模で火炎瓶作戦の指示を出した日本共産党中央のもと、主に警察官や税務署などを対象に、自作の火炎瓶で攻撃をしかけた。その思想的残党が学生運動にもつながったという意味で、国内における暴力革命の元祖は、明らかに日本共産党である。当時のこれらの路線が国民の総批判を受け、路線変更をよぎなくされた。戦後の日本共産党の歴史において2つの困難な時代があったとすれば、ひとつはこの暴力革命路線の失敗から立ち上がるまでの軌跡であり、さらには「ソ連崩壊」という世界史的事件の余波から浮かび上がるための必死の戦術だった。いずれも同党は壊滅的被害をなんとか切り抜け、日本の中でのみ通用するガラパゴス化した独自の共産政党としての立場を確立して現在に至る。

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