日本には「平和の党」を称する主要政党が2つある。公明党と日本共産党だ。後者は戦中、戦争に反対した「唯一の政党」であることを今も誇らしげに主張する。このときまだ公明党はこの世に存在しなかった。私は「平和」を政策の主軸に置く政党は多くあるに越したことはないと考える。その意味で「平和の党」は特定政党の独占物ではない。要は現実にリーダーシップを発揮し、平和的社会を築く実行力があるかないかということだけだ。
私個人は「平和」は結果としての問題であって、前提となるのは「人権が保障される社会」にこそあると考える。要は、人権が保障されない社会に真の平和は訪れないという方程式だ。かつて公明党は「人権の党」を標ぼうした時代があった。私の知る限り、それは浜四津敏子参議院議員が代表を務めたわずか1年ほどの期間にすぎない。また日本共産党は外に向かっては人権問題には熱心だが、党内においては多くの人権侵害がいまも多く指摘される。先日も福岡県の党職員が12人の県党幹部に査問で吊るし上げられた実態を指摘していた。戦前の話ではない。去年の話だ。その意味で日本共産党は、外には人権尊重を語りながら、内には「人権侵害」をシステムとして根深く保持したままの状態の政党といえる。一方の公明党は「人権の党」とは与党になってからは特に言わなくなった。自民党という「大きな壁」の前に、それは公約違反の言葉になりかねず、萎縮している状態に見える。だが繰り返すように、平和社会は人権が保障された社会であってこそ初めて成り立つ概念だ。平和だけが独自に成り立つという考え方は正しくない。基本的人権をどこまでも保障する社会は当然、内外人平等の原則にたつ。現在、埼玉県の川口市でクルド人が誤った報道とSNS上のキャンペーンによって「敵性外国人」の扱いを受け、100年前の朝鮮人殺害「前」の社会状況が作られているとの指摘がある。このような問題に地域レベルで人権保障の立場で動く政党こそが、本当の意味での平和社会を構築する政党であると考えている。