ノンフィクションの予断と修正

まだ20歳そこそこの学生時代、ルポライター竹中労氏のルポルタージュ研究会に何度か足を運んだことがあった。幾つかのフレーズを覚えている中で、「予断は取材によって修正される」というものがある。例えていえば、ある事件の取材をする。取材者は限られた情報をもとに特定の予断(実際はこんな感じではないかとの予想)をもった状態で取材に取り組む。そのこと自体はまったく否定されるべきでなく、むしろ当然のことだ。実際に「取材」を行い、そこで知りえた情報なり、結果を加味し、当初の予断はファクトに基づき随時修正されていくことを示した言葉と認識している。つまり、取材者が当初予想していた内容と取材結果がまったく逆のものになる、ということは当然ありうる。これもまた顕著な例であるが、日本共産党が善の存在であると信じてある事件を取材し始めたと仮定する。その取材において、同党がとても善とはいえない具体的な事実がボロボロと出て来た場合、当然、日本共産党は善であるという「予断」は修正され、その修正された事実や結果が作品なり、記事に反映されていくという過程をたどる。これが冒頭の竹中氏による「予断は取材によって修正されていく」の意味だ。だが昨日も言及したイデオロギー作家の門田隆将の場合、彼の手法は、以上とは明らかに異なる。最初から「日本は素晴らしい国」「日本人は他民族よりも優れた民族」という特定のドグマが先にあって、それに反する材料はことごとく捨て去られ、合致する材料だけを用いて作品を構成するという手法である。要するに動かない結論が先にあって、どのような材料が出てきたとしても、「日本人万歳!」の結論が変えられることはない。ノンフィクションとしては恣意的な手法であり、残念ながら彼の作品はそんな手法で成り立つものが目立つ。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。