批評精神

本日付東京新聞「本音のコラム」でルポライターの鎌田慧さんが大杉栄の娘・伊藤ルイのことを書いていた。たまたま昨日、『書くこと生きること』というタイトルの鎌田氏の本を手にとっていたら、まえがき部分で同じく伊藤ルイさんのことが出ていたので、驚いた。大杉栄の遺児であった伊藤ルイに、私は家人に連れられて20代のころにお会いしたことがある。自宅を訪問したのだが、当時の私はかなりの認識不足で、どのような立場の人であるのか十分に承知していなかった。つまらなそうな表情をしていたに違いない。伊藤さんはそれから2年後、亡くなっている。

話は変わるが、私が鎌田さんにお会いしたのは学生時代、早稲田大学ノンフィクション研究会の一員として面談していただいたのが最初だった。2回目は日本エディタースクールに通っていた20代半ば。同スクールに顔を出した鎌田氏が受講生らと懇談の場をもってくれたときだ。冒頭の『書くこと生きること』のまえがき部分に次のようにあった。

「さいきんのマスコミには、極端に批評と論争が少なくなってきている。この翼賛体制的な退廃には、いいかげんうんざりしている。わたしもまた、諦めてものをいわなくならないように気を引き締め、発表の場が与えられているかぎり、先人の批評精神に学んでいきたい」

驚くことに、これが1996年8月段階の言葉だからびっくりする。前年の95年8月が終戦から50周年にあたり、国会決議がすったもんだした後のことだったのだろうが、この言葉はいまこそさらに当てはまる。マスコミやそれに連なる物書きらが批判精神を失うとき、社会は閉塞し、停滞する。健全な批評精神こそが社会を活性化させ、あるべき「出口」に向かう糸口となる。現代は「権力の走狗」となった物書きばかりがあふれている時代である。

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