「ぼく悪くないもーん」が本質の《靖國史観》

物事には本質というものがある。本質はわかりやすく、シンプルであることが多い。第二次世界大戦中の日本を覆っていた歴史観は、戦後、GHQに解体されながらも、細々と生き残った。それがいまになって大きくモンスターのように肥大化している。「靖國史観」と称される歴史観の本質は、昭和の戦争は「正しい戦争だった」「やむにやまれない戦争だった」という自己肯定のための歴史観であり、大人の理性に基づく事実分析や教訓を得ようとする態度、反省などという態度はかけらも見られない。20世紀の著名な歴史家アーノルド・トインビー博士は、愛国心を指して「古代宗教のようなもの」と表現したが、日本における「靖國史観」もそれに近いものがある。要するに、自己を直視する能力を欠いた大人であり、幼児性のまま大人になった心理と言い換えることができる。子どもが親や大人に叱られそうになったときに「ぼく悪くないもーん」「〇〇ちゃんが悪いもーん」という主張と、本質的に変わりがないからだ。要するに日本の歴史認識問題の多くは、このような幼児性気質と、大人の理性との戦いの構図ともいえる。もともと幼児と大人では気質に大きな開きがあるので、話がなかなか噛み合わないのも当然だ。なぜなら幼児性気質は、理屈や理論の範疇というより、情念の範疇を主体として占めるからだ。情念が未成熟のまま大人になった人たち。靖国史観の信奉者の本質はそこにあり、そうした人びとが特定新聞、特定雑誌、特定SNSを使って、さながらゾンビのように拡大増殖しているのが昨今の風潮である。

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