ことしは100年づくしの企画が多い。水平社宣言から100年、サンデー毎日・週刊朝日の創刊100年、日本共産党の100年。その中であまり注目されないのが沖縄から日本本土に空手(当時は唐手)が伝わって100年となる史実だ。1922年4月末から5月にかけて、東京である展覧会が開催され、そこに沖縄の空手を展示するスペースが設置された。空手を説明する展示とともに沖縄から上京した空手家・富名腰義珍が演武を行い、沖縄の空手が初めて公式にお披露目される機会となったとされる。背後で支援したのが講道館柔道の創始者であった嘉納治五郎だった。嘉納はその後、沖縄から上京していた富名腰義珍を講道館に招へいし、空手演武会を催した。船越は本来ならそのまま沖縄に戻るつもりでいたが、嘉納の勧めもあり、東京に残り、残りの生涯を空手普及に捧げることにつながった。富名腰は慶応大学を筆頭に東京の各大学に続々と創設された唐手部の顧問として、大学生を対象に空手普及に励んだ。松濤館という今も著名な流派は、この富名腰がつくったものだ。極真空手を開いた若き日の大山倍達も富名腰の元で黒帯をとり、富名腰の護衛係を務めた時期もあったとされる。沖縄の空手は中国武術の影響が強いとされてきたが、それと同じくらい、日本の剣術や柔術の影響を色濃く残している(特に首里手流派)。その意味で、日本と中国の折衷文化として定着したのが沖縄の空手であり、本来の空手は日本と中国の文化を橋渡しして沖縄が独自に発展させた象徴的な武術といってよい。