政治家が有権者に対して真の意味で「誠実」かどうかは、平気でウソを述べる人物かどうか、さらに情報公開のあり方をみればすぐにわかる。その意味で、虚偽と情報公開は相互に密接に関連する事柄だ。この国の国家レベルの情報公開制度は先進国の中では取り組みが極めて遅く、自民党政権が下野した1993年、細川連立政権のもとでようやく具体的にスタートした。その工程が結実したときはすでに同じ政権ではなかったが、それでも国家行政レベルでこの問題が進み始めたのは、非自民政権が端緒をつけた大きな成果といえた。情報公開法が制定され、さらにこの制度を深化させることを期待されたのが21世紀に入ってのこの国のあり方だったといえよう。だが、その精神をことごとく「破壊」したのが安倍晋三元首相であった。国会では保身のために多くの虚偽答弁を繰り返し、有権者に対する「誠実性」は皆無といった姿を晒した。さらに安倍政権のもとで、日本の行政史上特筆される財務省の「公文書改ざん」事件が発覚し、改ざんの動機は安倍元首相を守るためになされたものといえた。情報公開の趣旨と重要性を深く理解する首相であれば、改ざんに関わった責任者を厳重処罰に付し、将来への「見せしめ」としたはずである。ところが同首相はその責任者らをあろうことか野放しにし、逆に昇進させた。要するに改ざんの最大の推進者が安倍首相というわかりやすい姿であった。以上の二つが意味することは、安倍元首相にとって有権者は自らの立場を保障するための「道具」に過ぎず、騙し続けられればそれでいいという政治家としての姿勢と見られても仕方がない。そうした政治姿勢に嫌悪感を抱く人は数多い。その本人が今では首相を退いたあと、日本を戦争のできる国に急変させようと躍起となっているようだ。根底にあるのは戦前の大日本帝国の復元を夢想するかのような時代錯誤の歴史観であり、靖國神社を信奉する歴史観と同一のものだ。こうした人びとには歴史的な反省といった概念がない。非常に危険な様相の中に、公明党は置かれている。