過小評価と過大評価

一つの事象をめぐって評価は常に複数起こりうる。たとえば本日の東京新聞コラムで日本共産党寄りと思われる識者が同党の過去の暴力革命路線について、「確かに70年前はそんなことを言ってました」と漠然と書き、同党擁護の主張を掲載しているのは、同党の過去の暴力行為を「過小評価」している事例といえる。一方、同党を監視対象としてきた公安調査庁は、暴力行為の事実を重く見てきた。私はそれをけっして「過大評価」とは思わない。

現実に人間の生命を殺めたという「事実」は重い。しかもそれが一部の跳ね上がり構成員による突発的なものではなく、政党としての憲法である「綱領」に基づいて組織的に行われたというのだから、その罪を犯したうえでいまも組織として存続している事実のほうがむしろ不思議というものだろう。現在の同党幹部は「あれは一方の派閥が(勝手に)行ったことで今のわれわれに責任はない」などと主張するが、それらは過去のあやまちを何ら反省もしていない態度にしか映らない。

一方の派閥が勝手に行ったとするかのような都合のよい主張も、事実とは明らかに異なるものである(詳細は10月1日発売予定の「第三文明」11月号、「短期連載 白鳥事件と共産党5」をご参照ください)。

このようにデマにデマを重ねているのは、実際は日本共産党の側だ。だがそうではなく、相手に向けて「デマにデマ重ね」(赤旗日曜版・9月19日付)などの大見出しを立てるのは、自己防衛本能から来るものだろうか。

ともあれ、過去に「綱領」に基づき複数の人殺しに手を染めた事実は重い。さらにその反省を志位委員長らは何ら示そうともしない。それらの事実それ自体が、国民に同党への不安や不信を抱かせる最大要因なのである。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。