印象操作するしかない人びと

人間は自分が批判されたときにどのような行動を取るかでその人物の評価が形成される面がある。本質的に批判されると、もはや反論がかなわなくなる。何を言ったとしても「言い逃れ」にしか見えなくなるからだ。それを認識した本人はどのような行動をとるか。答えは一つだ。相手が怪しげな人間であることを強調することで、自分への批判を和らげようとする行動である。そうした行動を私が最初に体験したのは2002年に発刊した『拉致被害者を返せ 北朝鮮問題と日本共産党の罪』をペンネームで発刊したときだった。共産党は本の内容について何も反論できなかった。そのかわりしんぶん赤旗で掲載したのは、私が複数のペンネームを使って仕事をした事実をとらえて「三つの名前で攻撃」などと党内向けに印象操作を図るしかなかったからだ。要するに本の内容について答えられないため、相手の印象を貶めることで、批判の印象を相殺しようという行動である。

最近も同じことを経験した。今週、私は『疑惑の作家 「門田隆将」と門脇護』(論創社)という本を出版するが、この事実を知った門田某はすぐさま自分のツイッター上で、上の赤旗記事を引用しながら、私が怪しげな人物であるとの印象操作を図った。20年近く前の記事を使って、しかも保守論客を自称する人間が対極の政治勢力の機関紙記事を使ってまで貶める必要性が生じたわけだ。ひとえに同人の焦りのたまものといえよう。本質的な批判に正面から反論できないとき、人は常にこのような行動をとる。その意味で、日本共産党も、門田某も、その本質は同じレベルにあるといってよい。

門田隆将こと門脇護が、この本で書かれた内容について、どう反論するか見ものである。この人物は事前の具体的な取材依頼についても、疑惑について一切答えない行動をとった(この件はいずれ公開する)。同人は自分の身を守るための姑息な「印象操作」を繰り返すのではなく、本の中身について、真正面から回答すべきである。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。