不破哲三のペテン師としての資質

日本共産党の最大のアキレス腱である「50年問題」。今から70年前の1950年に始まった朝鮮戦争と時を同じくして、党内が分裂した数年の出来事を指す。同党の暴力主義が露わになった珍しい時代であり、警察署に火炎瓶を投げたり、気に入らない警官を殺害したりした。さらにそれらの刑事裁判においては、事実無根の冤罪のように組織的に広範囲な運動を展開した。これらの時代について、不破哲三はどのように総括しているか。

当時は共産党が分裂して正常な状態でなかったので、われわれに責任はない。徳田球一や野坂参三ら「分派」が勝手に行ったことであり、それに勇敢に立ち向かっていたのが宮本顕治(=不破と志位の師匠)だと主張している。ここでは問題点を2つ提起する。

仮に不破らの主張のように、同党が当時2つに分裂していたことを認めたとしても、その一方がやったことだから片方に責任はないという理屈は成り立つのだろうか。どちらの組織も当時日本共産党には違いなかったはずである。まして同党には「少数は多数に、下級は上級の決定に従わなければならない」という根本原則がある。その原則に従えば、当時の宮本顕治、不破哲三は明らかに「少数」側だった。同党の組織原則でいえば、当時の徳田・野坂は「多数」であり、「上級」だった。不破の主張が詭弁であることは明らかだろう。

もう一つは、不破は野坂参三のことを「分派」などと口汚く罵るが、その野坂を戦後の同党の歴史のほとんどにおいて最高指導者として扱ってきたのは、宮本であり、不破自身である。野坂は1955年から同党の第一書記(書記長)となり、その後、議長として、最高指導者を四半世紀以上にわたり続けてきた。つまり不破は自らを「分派」を四半世紀以上も仰いできた「バカ者」と自白しているようなものだ。 はっきり申し上げるが、人間を殺害し、その責任をみじんもとらない姑息な態度。そんな人間たちに政権に入る「資格」はない。また他人を批判する「資格」がないことも明らかだ。

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