門田ノンフィクションの虚構 8

門田隆将こと門脇護が「皇国史観」に毒された考えをもつ人物であることは、一連の作品や執筆物をみると明らかだ。もともと同人の出身媒体である週刊新潮は保守的な傾向で知られ、そうした職業的経緯からそうなったものと推察されるが、こうした「偏り」が現在は世相的にも大手を振って歩いている状況なので、もともとあった「隙間」にうまく入り込み、それを有効活用しているともいえる。

皇国史観は天皇がこの世界でもっとも長く続いた万世一系を誇る考え方をし、天皇の存在を崇拝する。その結果、先の戦争が天皇の責任のもと行われたこと、先の軍隊が「天皇の軍隊」と位置付けられたことなどから、日本の戦争責任を矮小化する傾向が顕著で、そうした思想的基盤から、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦は単なる職業だった」などの事実を無視した主張につながってくる。

こうした考え方にかぶれている門田の立場からすると、戦記物といっても、それは公平中立な作品ではなく、できるだけ過去の日本軍を傷つけない(悪く言わない)という傾向になることは必然的なことである。私が彼の作品を「バイアスの塊」と評するのは、そうした背景が存在するからだ。

最初から中立性をかなぐり捨てているので、彼が扱うファクトは「都合のいい」「ごく一面のファクト」でしかない。もし逆に、旧日本軍にとって都合の悪いことを書く人間がいれば、それは「日本が憎い病の人たち」といった短絡的な評価をされることになる。驚くべきことは、そうした内心の状況を彼は至るところで書き飛ばしていることだ。

後世の人間からすれば、現在のそうした主張がいかに偏ったものであるかをわかりやすく証拠づける材料を提供してくれていることになる。

いずれにせよ、旧日本軍の『真実』を指摘する者、もしも彼らにとって都合の悪い事実を指摘する者は「日本を憎む者」ととらえられる。

こうした屈折した感情のもと、彼のノンフィクション作品は中立を装って描かれているのが特徴だ。

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