門田ノンフィクションの虚構 2

門田隆将のノンフィクションには重要なところで事実を正確に反映していないところが随所にみられる。例えば今回取り上げるのは2年前に発刊された『敗れても敗れても 東大野球部「100年」の奮戦』(中央公論新社)だが、その第1章で沖縄県の戦中最後の知事となった島田叡を取り上げた部分があり、次のような記述がなされている。

 「70年前の6月、最後の沖縄県の官選知事・島田叡は、信頼する沖縄県警察部長の荒井退造とともに、摩文仁の激戦地で消息を絶った。2人は、数々の苦難を克服して台湾や沖縄北部への沖縄県民の疎開を推し進め、20万人におよぶ県民の命を救った」

 島田の着任は1945年1月だが、実際の疎開作業は前年の6月から行われていた。つまり島田のいないときから疎開作業は進められ、そのとき体をはって推し進めたのは警察の荒井部長だった。その結果、数万の沖縄県人は九州などに疎開し、救われたことは事実である。この本は東大野球部出身の島田を宣揚せんとばかりに、重要な数字をデフォルメしている。まして県内の北部への疎開を推し進めるのに島田知事が関与したことは事実だが、「20万人」は事実に則さない過大な数字である。まして島田がいなかったらその全員が犠牲になっていたかといえば、そうともいいきれない。北部に疎開しても、マラリアで命を落とした者は多くいたのである。

 要するに、事実の細かい部分における「脚色」の手法なのだ。そうした手法の延長として、この第1章のタイトルは「沖縄に散った英雄」となっている。これは島田が自分で自分のことを「英雄」と言ったわけではない。この人物を知れば知るほど、そうした言葉とは対極の精神の持ち主だったことが理解できる。書き手としての門田は、執筆の対象である島田を神格化しようと躍起になるばかり、勝手に「英雄」と活字にしてしまっている。これは、門田ノンフィクションの象徴的手法ともいうべきもので、事実に沿って事実の範囲内で描くのではなく、自分の心情に即して事実をデフォルメすることをいとわない体質を示している。私は彼のノンフィクションを、正当なノンフィクションとは言い難いと評するのは、こうした点に大きな特徴がある。

 彼がノンフィクションを書く理由はなにか。ひとえに日本人のすばらしさを強調し、宣揚せんがためだけに見える。その目的のために不必要な事実は、多くが捨象される。

 そのため彼の戦記物には、旧日本軍の不都合な事実はほとんど登場しない。

 私は戦争ノンフィクションなるものは、戦争の冷徹な事実をありのままに提示し、そこから読者に「教訓」を読み取ってもらうことに最大の意義があると考える。最初から日本人を持ち上げることを目的とした「偽装ノンフィクション」からは、後世に役立つ教訓はほぼ生まれないと危惧する。

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