本日付の東京新聞(特報面)や産経では「日本維新の会」の動きが大きな記事になっている。同党の連立入りが取りざたされていることに加え、「掲げる旗が見えない」(産経)、「存在意味そのものが問われる」(東京)といった指摘からだ。「掲げる旗が見えない」というのは、公明党も同様に指摘される問題である。何をしたいのか、どうしたいのか、伝わってこないという時折聞く指摘のことだ。もともと同党の立党理念ははっきりしていて、本来的にコロコロと変わる代物ではない。宗教的には「立正安国」であり、それを政治的に実現することにつながる。具体的にいえば、平和や福祉であり、当然ながら人権も加わらなければ不可能だ。党創設者は具体的に「大衆とともに」とのフレーズで方向性を指し示した。
公明党の課題は、目先の選挙勝利に傾斜するあまり、政党として構築すべき未来社会像が立ち上がらないもどかしさにある。ひめゆり平和祈念資料館をめぐる京都の自民党参議院議員の「推薦」問題も、公明党が苦戦を予想された兵庫選挙区などの支援とのバーターであったことは容易に推測できたが、沖縄戦の史実を平気で捻じ曲げるような「歴史否定者」を、目先の選挙利益のために推薦するという矛盾が凝縮された問題だった。結局、同党がどのような社会を構築したいのかという問題と不可分の関係にも映ったからだ。政党が本来もつ「最終目的」と「手段」において、手段を優先してしまう姿勢が、内外の人びとから疑問視された図式であったと感じる。
大事なことは、同党の理念を、時代精神まで高めることに尽きる。たとえば「人道立国」の理念が国内的に定着し、さらに世界各国に輸出できる状況になったとき、「人間主義」の理念が時代精神に高まったことを意味する。未来社会像はある意味で明確でなければならない。政治はそれを実現するための「技術」にすぎない。