世紀の捏造記者がゾンビのように復活した理由

門田隆将こと門脇護(62)が新潮社を退社したのは2008年のことだった。週刊新潮のエース記者として期待されながら、編集長になる道を閉ざされ、職場にとどまることを断念したのは、信平狂言事件という根も葉もないデマ報道を中心になって手掛けた「因果応報」の結果と見られた。この段階で本人が取るべき道は2つあった。真っ当な日本人らしく潔く筆を折って別の職業を探すか、あるいは被害者に謝罪し、深く懺悔して、みそぎを済ませた上でペンをもつ仕事を続けるかだったと思われる。だが結論として、同人はどちらの道からも逃げて生き続けた。他の先進国であれば、これほどの悪質な捏造記事を手掛けた記者が業界に戻ることは不可能だったと思われる。だがここは日本だ。過去の出来事もすぐに忘れるような民族性である。さらに、同人にとってはゾンビのように復活できる有利な土壌もたまたま生じていた。2004年11月、月刊誌『WiLL』という雑誌が創刊されて以降、保守言論、国家主義志向のオピニオンが急速に増えていったからだ。渡部昇一、櫻井よしこの2大看板でスタートした同誌は、順調に部数を伸ばす。そうした時代と並行するように、門田はこつこつと自分の作品を仕上げていった。この時期、あくまで控えめに実績を残すことに集中したのである。その上で右派言論の広がりとともに、月刊誌に執筆する機会も増え、露出する機会も多くなった。要するに同人は、職業を変えることなく、はては真っ当なみそぎを済ませることもなく、同じ職業に「居直る」道を選択したのである。要するに、泥棒が、その罪を悔い改めることなく、再び同じ職業を続けているようなものともいえよう。いまは「群れる」ことで、批判の矢を阻もうとするかのうように、右派仲間と共に行動する。強力な助っ人は、やはり週刊新潮時代からの腐れ縁ともいえる櫻井よしことの関係だろう。 門田本人が時折講演などで語るとおり、週刊新潮時代に部下からの信望はなきに等しかった。どこまでも自己中心であり、その特異な性格に周囲から辟易された面もあったようだ。ただし取材と筆のスピードだけは早い。それだけが業界において今も有用ということなのだろう。 だがこの人物が過去に「世紀の捏造キャンペーン」を張った人物であるという事実は、これからも消えることはない。愛知のトリエンナーレで昭和天皇の肖像画が踏みつけられている、ケシカランなどと本人は怒っていたようだが、それはすでに亡くなった人物の話だ。しかも芸術作品の上である。一方で門田本人が醜聞を捏造し、自ら弁護士を紹介してまでデマ事件を作出し、人権侵害した当の相手は現在も生存する同時代の人物である。その軽重は、部外者にも明らかであろう。ことほどかように、彼は自分に甘く、他者に厳しいナルシストである。日本人として尊敬できるとは到底言い難い。

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