◆門田隆将4 本名で活動できない理由

この人物の週刊誌記者時代の犯罪的行為を振り返るには、1990年代という時代状況を踏まえることも必要になるだろう。政治的に最もリベラルだったとされるこの時代、日韓関係も友好的だった。バブル崩壊後の余波でまだ景気はそれほど悪くもなかった。インターネットも定着していない時代で、紙媒体である出版社系週刊誌からすると「最後の全盛期」といった時代だ。かつ政界も大きく変動した時期として知られる。93年の総選挙で、自民党が下野し、野党連立政権が出現。公明党もその一翼を担った。その政権はすぐに崩壊することになるが、いったん与党入りした公明党の支持基盤である創価学会は、世間の格好の注目対象となり、週刊誌にとっては売上に貢献するネタとなった。90年代初頭は「週刊文春」が、さらに競合するように「週刊新潮」が追随した。その新潮編集部において尖兵の役割を果たした記者が門脇だった。自己顕示欲が強く、社内でも早くから突出していた彼は、当時の編集長の松田宏に気に入られ、多くの捏造記事に手を染めることになる。1994年には北海道の創価学会地区部長の男性が遭遇した交通事故を題材に、事故の被害者を加害者に仕立て上げた記事が掲載された。裁判沙汰になり、門田側が敗訴した。さらに95年には東京・東村山市で起きた女性市議転落死事件にからみ、これまた根拠のない教団謀殺説に乗せられた門脇の記事は裁判沙汰に。当然ながら門田側が敗訴した。さらに96年には、函館市のならず者夫婦の虚言に飛びつき、池田名誉会長を犯罪者呼ばわりするキャンペーン手記を手掛けた。この事件は、ならず者夫婦が起こした民事裁判が裁判所によって「事実的根拠に乏しい」と相手にされず、結局、捏造手記であったことが司法において事実上確定した。この事件については、2冊の書籍が本質を浮き彫りにする。『言論のテロリズム――週刊新潮「捏造報道」事件の顛末』(2001年)と『判決 訴権の濫用――断罪された狂言訴訟』(2002年)がいまもネットで手に入る。 問題は、門脇がこの事件を単に取材したにとどまらず、手記を成立させるため、ならず者夫婦に民事訴訟を起こすことを具体的に働きかけ、それで自分のスクープ性を高めるように行動していたことだろう。要するにこの事件は、自己顕示欲の強い一人の週刊新潮記者が乗せられて手掛けた「自作自演」の捏造記事だった。門田隆将こと門脇護は、ジャーナリストとしてやってはいけないことに手を染めた。そのため社内、社外でも問題となり、結局、若くして編集部内で期待される存在であったにもかかわらず、編集長への道は閉ざされた。当時、自業自得という声は多かった。さらに「門脇護」という実名も、捏造に手を染めた問題記者として知られるようになったせいか、同人の独立後、その名前を使用することは避けられる結果となった。

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