公明党議員としての「軸」

現在の公明党議員は草創期と異なり、それなりの肩書と学歴をもつ人材が増えている。その点、うどん屋のおやじなどがまざっていた同党草創期の国会議員団に比べれば、優秀な「秀才たち」で固められた傾向は強い。草創期の国会議員の多くは池田会長が自分で選び、国家議員団を構成した面が強かったと思うが、大衆政治家への成長を期待した割りには、権力側につく議員ばかりが増えることを嘆いていたことは周知の事実である。草創期の国会議員は肩書や学歴よりも、むしろ「信心」で選ばれた側面が強かったと思う。一方、現在の議員団はそのへんがバラバラで、創価学会の中できちんと組織活動をした人はむしろ少数なのではないか。その点は大きく変わった点である。むしろ現在の議員団に必要な人材は、“一人一芸”のそれぞれの道のエキスパート、 普通の平和を求める女性部の代表 だろう (この人はエキスパートである必要はない) 。公明党国会議員団は数が限られるので、あらゆる分野のエキスパートの“最高チーム”でなければならない。特定の分野に偏ったりしたら、マイナスである。またエキスパートの分野に「穴」があってもいけない。そういう全体観を調整する役割を実質的最終的に担うのは、やはり教団の最高首脳なのだと思う。だが現状ではまったくその点が考慮されていない。女性国会議員は増えないし、医者ばかりが4人にもなる予定で(本人たちに罪はない)、全体の構成をきちんと精査している気配がまるで感じられない。話を戻すと、公明党議員と自民党議員の根本的な違いは、権力へのスタンス、その「軸」が異なる点であろうと私は考えている。公明党議員の軸足は「大衆の中」にある。ではなく、そうでなければならない。「大衆」には外国籍住民も当然に含まれる。だがその「軸」がきちんとできていない議員が増えた。支援団体側はきちんと監視していかないと、党が教団にマイナスの結果をもたらしかねない。

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